売れるということについて、ふと考える
気付いたら9月は一度もブログを書けていなかった。
さすが長続きしないで有名なわたしである。
そんな飽き性のわたしでも、まぁまぁ長く続いている趣味がある。
そう、ジャニーズを応援することだ。
わたしには長く応援しているグループ、最近気になって追い始めたグループと、応援対象は様々だ。
彼らを長年拝見していると必ずどこかの時点で思うことがある。ぶち当たる壁がある。
そう。「売れるということ」問題だ。
世間での認知度が高まり露出が増え戦略が功を奏せえば、好感度さえ上がる。
それがある種「売れた」証だとも言えよう。
しかし、
世間や茶の間に認識され「売れる」ことに伴って「ジャニオタの満足度が下がる」というのも良く見る現象だと感じる。
分かり易いところだと、今や国民的アイドルにまで伸し上がった嵐さん。
個人的な見解ではあるが、
わたしが思う嵐さんのいいところは5人が一丸となって馬鹿げているところ(褒めている)、5人が内弁慶なところ、5人で結束して現場に足を運んだファンやTVの前のファンを楽しませてくれるところ、だ。
この「楽しませるスタンス」は今も健在で、さらに加速さえしていると感じるが、その持ち味が感じにくくなってきた、という変化を感じる。万人向けになっていると思わざるを得ないのだ。
何をするにも「優等生」としての言動が求められているようになった。
「国民的」と呼ばれるより以前の、アホらしい彼ら(褒めている)にはたまにしか出会えなくなった。「世間」向けの顔が増えたのだ。
(もちろん歳を取って落ち着いたという点は大いにあるが。)
この現象を、Hey!Say!JUMPの伊野尾くんにも少し感じることがある。
彼のことを詳しくは存じ上げないが、個人的見解で申し上げると、
彼はふわふわしたどこか適当とも言える(しかし計算された)テキトー発言とその不思議具合が売りのひとつだと認識している。
先輩に臆することのない発言や、人とは違った発想、面白さを狙ったのか狙っていないのかすら読み取れないテキトー発言。これらの言動と彼の可愛らしいキュートなお顔が彼の武器だとわたしは思っていた。
しかしいわゆる伊野尾革命が起き、世間に「見つかった」伊野尾くんは、今や人気の情報番組やバラエティー番組に引っ張りだこだ。
「世間」に対して顔を見せることが増えた。それに伴って「世間」向けの顔も増えた。
今も十分面白く才能に溢れた人だとは思うが、革命前のあのテキトーさでファンの心をつかんでいた彼は、最近あまり見られない。
発言も多少なり「世間」向けとなり、あのキュートなお顔も少し強張って見える時がある。
仕事や状況によって発言や表情を変えなくてはいけないことは理解できる。
それはどんな仕事をしていてもでも一緒だ。
しかしアイドルはそのキャラクターや容姿が最大の武器のひとつである。
その本質があまりにも変わってしまうと応援してきた者としては少し淋しさを感じざるを得ないのではないだろうか。
売れるということはより多くの人に認知され、その為にイメージや好感度を守ることも必要になってくる。それは仕方がないことなのだろう。
これが「売れること」にはつきものなのだろう。
しかし頭では分かっていてもなんだか淋しいというのがジャニオタの正直なところではないだろうか。
もしこれが自担であったとしたら、と想像すると売れてくれたことに喜びつつもどこか淋しい気持ちに襲われる気がしている。
持ち味や本質を存分に出せない状態になってからの「人気」を保つのも、また大変なのではないかと想像する。
本来の質を一定のクオリティに保ちつつ「売れ続ける」ことはとても難しいことなのかもしれない。
一部の熱狂的なファンがいた近所のラーメン屋さん。
口コミが広がりいつしかグルメサイトで高得点をたたき出す人気店となり、ファンが増える。
行列が増える。提供しなくてはいけないラーメンの数が増える。
量産するうちに味が少し歪む。当時の味を好んだ客が離れる。
本質を一定のクオリティに保ちながらも売れ続けることはとても難しいことなのかもしれない。
長年のファンがいる老舗はすごい。お食事もジャニーズも。
お読みいただきありがとうございました。